尖閣列島戦時遭難事件
太平洋戦争の末期、石垣町を出港し台湾へ向かう疎開船が米軍機の銃撃を受け遭難した。一隻は爆発炎上沈没し、多くの犠牲者を出し、かろうじて生き残った人々は航行不能になったもう一隻に引き上げられ、尖閣列島魚釣島に漂着し上陸したものの、そこには食糧も無く、飢餓と病気と死との闘いが待ち受けていた……。同書は、生還者による証言や体験記、関連資料、事件発生に到った歴史の検証など、遭難事件を多角的にとらえて後世に伝える貴重な 記録集である。生還者らは思出したくない記憶をなぞり証言してくれているが、他にも癒されない傷を抱え口を閉ざしたままの当事者もいる。「沈黙の叫び」というタイトルが示すように、言えない沈黙の部分にこそ本当の事件の姿があるのかもしれない。国家の戦争は終わったが、一人びとりの心の戦争はいまも終わってはいない。
目次
写真資料
尖閣列島位置図
魚釣島地形図
台湾疎開石垣町民遭難関係コース略図
発刊にあたって
編集にあたって
第一章 証言
<テレビ放送番組>
尖閣諸島からの叫び ~証言・最後の台湾疎開船~ (制作・著作 沖縄テレビ)
<遭難者体験記>
台湾疎開船遭難記 (大浜 史 )
避難命令のままに ~台湾疎開船遭難で姑を失う~ (宮良 信)
すり切れた経読本 ~台湾疎開船避難で子供三人を失う~ (花木 芳)
一瞬のうちに息子を失って ~台湾疎開船遭難記~ (慶田城秀)
まる二日間、必死の航海 ~尖閣列島遭難者救助決死隊~ (金城珍吉)
悪夢の五十日間を生き抜いて( 照喜名グジ)
台湾疎開追憶 ~無人島漂流記~ (宮良当智)
四十八日間の死闘( 石垣ミチ)
少年船員の遭難記(屋部兼久)
命びろいした島で拾った石を大事に(下地 博)
生死を境に生き残って(羽地政男)
第五千早丸の機関長として(金城珍吉)
魚釣島遭難と救出への闘い(栄野川盛長)
母の愛(黒澤淳子)
私の戦争体験記(石垣正子)
疎開船無人島漂流記(宮良豊吉)
母と二人、慰霊碑の前で〈遺族手記〉(大浜 善和)
<座談>
台湾疎開者生還者の集い
第二章 尖閣列島の自然と戦時遭難事件の検証
尖閣列島の自然について(正木 譲)
尖閣列島戦時遭難事件はなぜおきたか 軍部の未必の故意(大田静男)
第三章 遺族会のあゆみと尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑建立事業
遺族会のあゆみ
期成会発足後の経過の概要
趣意書/期成会役員
慰霊之碑除幕式並びに慰霊祭
寄付者ご芳名
資料編
遭難者名簿
関連文書
関連新聞報道
慰霊之碑建立事業募金ご協力者ご芳名
編集後記
書評 八重山毎日新聞 ~戦争を知らない、戦前生まれ~
ことしも暑い八月がやってきた。十五日は太平洋戦争六十一年目の終戦記念日である。そもそもこの戦争は、一九三一(昭和六)年九月、日本が中国東北部(満州)侵略にはじまる十五年連続した戦争の敗戦でようやく幕を閉じた。
敗戦が濃厚となった一九四五(昭和二十)年、本土決戦が叫ばれるなか沖縄に上陸した米軍は日本軍との間で民間を巻き込む鉄の暴風が吹き荒れる戦争を繰り広げ、日本軍の組織的抵抗が終結する地上戦が終わり(六月二十三日)、人類史上はじめて原子爆弾が広島(八月六日)、続いて長崎(同九日)上空でさく裂して未曾有の惨事を引き起こしてようやく八月十五日、国民はラジオでの天皇の玉音放送で敗戦を知らされた。
もう一週間も戦争が続いていたなら、於茂登岳や白水などマラリア有病地に避難していた人たちは「戦争マラリア」でさらに多くの犠牲者を出していたであろうと言われている。
こうした終戦直前の石垣で老若男女約百八十人を乗せた台湾への疎開船二隻が石垣港を出港し、西表舟浮経由で台湾へ向かった。途中、尖閣諸島魚釣島近海を航行中、米軍機に発見されて機銃掃射を受け、一隻は炎上沈没し、一隻はエンジン故障で航行不能となって漂流、かろうじてすでに無人島と化していた魚釣島にたどりついた。
機銃掃射で多くの人が死に、あるいは海中に没し行方不明となったり、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図が展開されたという戦時遭難事件が起きたのである。当時すでに日本軍は制海制陸権も失っていた。
学童疎開船の「対馬丸事件」についてはよく知られている。しかし、この八重山で実際にあった台湾疎開船の遭難事件については、一部の人を除いてあまり知られていないのではないか。このほど発刊された記録集「沈黙の叫び-尖閣列島戦時遭難事件」を手にし、改めて本事件の全容を知り驚いている。
2001年に発足した尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑建立事業期成会(慶田城用武会長)が新川舟蔵に建立した慰霊碑建立事業の一環として取り組んできた記録集の発刊事業である。
疎開船の乗船者はほとんどが四カ字の人たちで占められているが、なかには名蔵で居住していた台湾の方たち、朝鮮の人、軍人も含まれていたという。
また、なぜか大浜の一家五人が含まれており、魚釣島では舟大工として救援のためのサバニづくりに貢献している。
記録集によると、無人島の魚釣島にたどりついた人たちの語りたくない、思い出したくない当時の状況、光景がうかがえて胸がしめつけられる。毎日毎日、船で一緒だった人が死んでいく。埋葬しようにも岩盤の島で穴が掘れない。仕方なく離れた所に石をつみあげて弔うしかない。
ムイアッコンもない岩だらけの島でカタツムリ、ヤドカリ、小魚、長命草、ミズナ、フクナなどの野草、クバの芯などで食いつなぎ、救助の船を待つ日が終戦の過ぎるまで続く状況を思うと、これまでの沈黙の叫びが聞えてきて胸の痛みを禁じ得ない。
石垣市では一九六九年に魚釣島に「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」を建立しているが、今なお無人島の同島への往来はままならないことから、2002年7月に新川舟蔵に改めて期成会事業として慰霊碑を建立し、除幕式並びに慰霊祭を挙行している。
久松五勇士ならぬ救助を求めるための決死隊が資材を寄せ集めてつくったサバニで魚釣島から必死の思いでたどり着いた川平底地湾に記念碑を建立したいと生還者や遺族の方たちが願っているようだが、ぜひかなえてあげたいと思う。今後、期成会で市当局へ働きかけてぜひ実現させ、反戦平和のシンボルとして後世に伝えてもらいたい。
今は、尖閣諸島は中国、台湾との間で領有権の問題が惹起しており、中国との間ではガス田の開発をめぐる外交問題にも発展している。
今日、国際社会は北朝鮮の核開発やミサイル発射、さらに非人道的な拉致事件、イスラエルによるレバノンのイスラム教シーア派民兵組織のヒズボラ攻撃、イラク、パキスタンなどの局地戦争が続発して平和が脅かされている。わが国においても平和憲法がその地位を存続できるか危機にさらされている。教育の問題もクローズアップされ愛国心論争が巻き起こっている。
品格のある国をつくるため、諸国民から信頼されるようわが国、わがまちを見直し、何をなすべきか考えなければならない時にきている。尖閣列島戦時遭難事件は改めて戦争と平和についてタイミングよく考える機会を与えてくれた。そこに記された数々の体験談は戦争の悲惨さ、おろかしいできごとの告発でもある。関係者のご苦労とご努力に感謝を申し上げます。
2006年8月6日付『八重山毎日新聞』
下野栄信(九条の会会員)