前新透氏が二十七年の歳月をかけて採集した方言を収録し、日本最南端の出版社から刊行されたこの辞典は、琉球語と日本語の古層、民俗を研究するための貴重な文化遺産である。
(公益財団法人 日本文学振興会)
>文藝春秋|各賞紹介|菊池賞
先祖から引き継がれた生活や大切な文化が凝縮された言葉
ムニバッキター(言葉を忘れたら)
シマバッキ (生まれ島をも忘れ)
シマバッキター(生まれ島を忘れたら)
ウヤバッキルン(親までも忘れる)
これは、大正生まれの前新透先生がよく口にされる格言である。先生の生まれ島は竹富島なので竹富方言になっているが、各島で、各島の言葉でよく耳にする格言である。にもかかわらず、今や世界中で方言が消滅の危機にさらされ、八重山の島々もその例にもれず危機は深刻だ。
25年前、教職を退いた透先生は、かねてより思い温めていた竹富方言集めをしようととりかかり始めた。ところが、その当時でも方言で会話をしている家庭など皆無に近いことを知り愕然とする。以来、今日に至るまで、すぐれぬ体調をおして、営々として竹富方言辞典づくりに励んでこられた。そんな先生が現役教師時代のことを回想し、次のようなお話をされたことがある。
「戦後まで教育の現場では標準語励行がまだ盛んだったが、国語教師になりたての自分は、『方言まじりの妙な標準語』を正しい標準語に直すよう、率先して指導した。標準語励行の功罪を問えば、結果的には円滑な意思
疎通を可能にしたことによる恩恵は非常に大きいと思う。しかし、その時代の指導方針だったとはいえ、今思えば『方言を標準語に』ではなく、『どちらも大切にして両方きちんと話せるように』指導すべきだった」と。
過ぎた昔の話ではあるが、「言葉を忘れたら…親までも忘れる」と聞かされて育った者にすれば、方言をもっと大切にすべきであったと、今も複雑な思いがあるのだろう。まして、これほどまで急速に方言が消えようとしていては、なおさらである。
方言というものは、最大公約数的な共通語に置き換えて意味が伝わればそれでよい、という代物ではない。単純に置き換えることのできない、先祖から引き継がれた生活や大切な文化が凝縮された言葉だからだ。
方言辞典を手がけてきた25年という歳月には、単なる情熱だけにとどまらない、教育者としての良心、生まれ島を忘れない島人としての愛情を感じさせる。テードゥンムニ(竹富方言)とともに、透先生の島を思う心も、伝えられていってほしいものだと願う。
南山舎
『竹富方言辞典』を推薦する
待望久しかった前新透著『竹富方言辞典』(編著:波照間永吉、高嶺方祐、入里照男)が出版された。本文編が1560ページに及ぶ大著である。本辞典は、消滅の危機に瀕した竹富方言の実情を憂い、その再生と保存継承を願って、著者前新透氏(大正十三年生)が母語とする竹富方言を四半世紀の長きに渉って内省記録し、更に島の古老を訪ね回って語彙を収集し、先行文献を博捜して採録した語彙集に、編著者等が補筆修正して完成させた優れた方言辞典である。『竹富方言辞典』は竹富島を愛する人々の「うつぐみ」精神によって世界に誇るべき竹富文化の至宝となった。
本辞典には竹富島の人々が竹富方言で島の宇宙空間を如何に分割認識して島の文化を紡ぎ、生成発展させてきたかが明示されているから、いわば竹富島の生活文化に関する図書館一館分のカードボックスの機能を果たすものといえる。本辞典の出版によって竹富方言は永久に保存され、子々孫々に継承される事が可能となった。
本辞典の内容上の大きな特徴は、まず収録語数が一万七千七百語に及ぶことである。こ?傴魂?屈?儀????れは出版された琉球方言辞典の中で最多の収録語彙数である。次に、総ての見出し語・項目に、カタカナ表記とIPA表記を併記し、品詞名を付したことである。これは一般利用者への利便性と専門家の利用を考慮した処置である。
見出し語・項目は五十音順に配列され、総ての見出し語・項目には適切な例文が付されていて、基本的意味や派生的意味が記述されており、『石垣方言辞典』や『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』とも比較対照されていて、「おもろ」、「琉歌」、「組踊」等との関連が示されている。これらは言語の共時的研究と通時的研究に大きく寄与する。
固有名詞や総ての屋号、陸上、海上の微細地名等も巻末の地図に纏められている。アクセントは二拍語までの確認できた語彙に、平板型は「0」、起伏型は「2」とし、音声表記の後ろに示してある。
文法事項は、巻頭に人称代名詞、指示代名詞の体系が詳述され、動詞の活用体形も四段活用系、一段活用系、変格活用系動詞のⅢ型に分類し、各活用形を否定形、志向形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形の七活用形にまとめて分かりやすく解説してある。
形容詞もサン型とシャン型の活用形にまとめてある。助動詞は受身・可能・自発の助動詞、使役、打消し、希望、完了・過去、尊敬、許容、様態、断定、義務の助動詞に分類して詳述してある。助詞も格助詞、並列助詞、係助詞、接続助詞、副助詞、終助詞に分類し、その意味と文法的職能を詳述してある。
巻末には簡単な日常会話文が場面毎に分類記述されていて、竹富方言の入門編となっている。これは、従来の方言辞典にはなかった新企画で、チェンバレン、宮良當壮以来の試みである。
2011年1月18日
沖縄県立芸術大学名誉教授 加治工 真市
「方言、消えないで」 「竹富方言辞典」を発刊へ
竹富島出身の元小学校校長、前新透さん(86)が来月、竹富島の言葉1万7710語を収録した「竹富方言辞典」を発刊することになった。B5判、1560ページの大著。教員退職後、20年以上かけてノート約40冊に書き留めてきた約2万語の竹富の言葉を専門家の協力で辞典に編集したもので、前新さんは「多くの人に利用してもらい、方言が消えないようにしてほしい」と願う。
前新さんは「竹富の方言のうち、変わった言葉を集めてみよう」と竹富島の言葉を書き留める作業を始めたが、方言の継承について「危険な状態に入るのでは」と心配するようになり、辞典の刊行を構想。
編集作業には、教え子で全国竹富島文化協会理事長の高嶺方祐氏(75)と元教員の入里照男氏(69)、県立芸術附属研究所の波照間永吉教授(60)が当たり、見出し語の整理やその説明、例文の作成などを行った。
八重山の島言葉につういては、国連教育科学文化機関(ユネスコ、本部パリ)が「重大な危機」にあると分類。その一方で、島言葉のラジオ体操や石垣方言辞典が反響を呼ぶなど、島言葉に対する関心は高まっている。
波照間教授は「どうすれば(方言の)危機的な状況から脱することができるか考えないといけない。(辞典として)文字にしておけば、残る。(辞典づくりが)ほかの地域にも波及してほしい。行政も取り組みを考えるべきだ」と話す。
「竹富方言辞典」は3月に南山舎から発売。500部発行。1部2万6250円。2月末まで先行予約割り引きがある。
2011年2月3日
八重山毎日新聞
「竹富の言葉絶やすまい」
「大切な竹富の言葉を消してはいけない」。その一心で、竹富島出身の前新透さん(86)=石垣市=が、教員退職後26年かけて「竹富方言辞典」を完成させた。2月下旬、日本最南端出版社「南山舎」(石垣市)から発売される。島を思い皆で協力する竹富島の方言「うつぐみ」の心のように、多くの人の協力で完成した辞典に、前新さんは「大いに利用してもらい、竹富方言を絶やさないでほしい」と願いを託している。
前新さんは15歳まで島で過ごし、25歳で竹富中学校に赴任した。当時は県内では標準語励行が?傴魂?屈?儀????左官に行われた時代。国語教師だった前新さんも「方言の交じった変な標準語は島を出たら通用しない」と率先して生徒たちを指導したという。「そうしなければならない時代だった。でも、方言という味わい深い言葉があるんだから標準語も方言も大事にすべきだと教えるべきたった」と複雑な思いを語る。
1985年に石垣市立大浜小学校の校長を退職後、かねてからやりたいと思っていた方言収集を始めた。大学ノートに見出し語と説明、例文を書いていく。気付くと2万2千語、ノート40冊分にもなっていた。
2005年から竹富中学時代の教え子で、元教員の高嶺方祐さん(75)と入里照男さん(69)が編集に加わった。高校の英語教諭だった高嶺さんは全ての言葉に発音記号を付け、入里さんは原稿を何度も読み返した。07年には県立芸術大学附属研究所教授の波照間永吉さん(60)も編集に加わり、石垣方言と首里方言、古い文献を参照しながら、竹富方言の変化や特徴を浮き彫りにした。
2011年2月11日
琉球新報
竹富方言の特異性を明らかにした「竹富方言辞典」
前新透著の「竹富方言辞典」が波照間永吉、高嶺方祐、入里照男氏をはじめとする関係者各位の協力によって発刊された。八重山方言に関心を持つ一人として感動を覚える。
著者の前新透氏が八重山教育事務所長在職中に「戦後八重山教育の歩み」の編集を発案され自ら編集委員長となって発刊されたご功績は真に大である。編集委員の末席を汚した者として敬服し頭の下がる思いであった。退職後は故里のことばに関心を寄せられ、竹富方言の研究に献身なさっている。
このたび重厚な「竹富方言辞典」は、竹富島生まれの著者が自己の母語とする竹富方言語彙を二十数年の歳月をかけて内省記録し、さらに竹富島生え抜きで明治生まれの話者から収集した語彙集を編著者等が補筆修正して編集された優れた方言辞典である。
もっとも、竹富方言は琉球語列島中の最南端に位置する八重山群島の竹富住民の間に行われる言語で、八重山方言の下位方言である。
日本方言研究の先駆者・宮良當壮は、「八重山語彙」の総説で「強ひて云うならば、八重山語中、特異なものは与那国島、竹富島、波照間島などの言語であらう」と記し、竹富方言が八重山方言の中で特異な方言であると述べている。
本辞典は1万7000に及ぶ収録語数で、これまでに出た琉球方言辞典の中で、最多の収録語数である。また、すべての見出し語にカタカナ表記と国際音声字母による音韻記号を併記しており、学術的にも価値の高い辞典である。
その見出し語は五十音順に配列され、すべての見出し語には適切な文例が付され「石垣方言辞典」や「沖縄方言辞典」とも比較対照されており、竹富方言の特異性を明らかにしている。また、索引編があり、共通語から竹富方言が逆引きできるように編纂されている。
さらに、巻末には日常会話文が場面ごとに分類記録し、これまでの方言辞典にない新たな試みがなされている。
石垣 繁(沖縄言語研究センター研究運営委員)