宮良 作による『国境の島 与那国島誌 -その近代を掘る-』に続く、与那国島紹介の書。
与那国島を誇りに思う二人の島出身者が、この島の知られざる話題を紹介する。
序文より
「琉球列島という特徴的な地域の中にあって、さらに色濃い特色をこの島が有していることを本書は教えてくれる。そして、島の自然や歴史に加えて人々の暮らしなど、興味の尽きない面白い話が次々と出て引き込まれる。この島特有の算法を紹介した章では、このような数え方があったことに強い興味を覚えた。そして、こうした算法が労働に伴って発生・発展したことに感心した」
――――加藤祐三氏(琉球大学名誉教授)
目次
第1章 与那国島の地勢と自然、そのいくつか
第2章 庶民はいかにして数を生み出したか
第3章 集落の変遷と社会の様相
第4章 「戦争こそこの世の地獄」大舛家の鎮魂・平和の墓標
第5章 日本国憲法をチマムヌイ(与那国島語)で
第6章 特別寄稿「自衛隊基地」問題
本書の特徴的な内容
天空の家の端(ティンダハナタ)―先祖たちの素晴らしい表現文化―( 第 1 章 7)
「あの世界的に有名なペルーのマチュピチェも、またヒマラヤのチョモランマも『天空の頭』とか『天空の都市』とかいう意味だそうですが、遠くアジアの与那国島でも、『天空の家の軒先(端)』と呼んだ我々の先祖たちの感性の豊かさ、雄大さ、その文化の発達の高さ、広さに何となく誇りを感じます」
なんた浜からティンダハナタを望む〔撮影:米浜玉江〕
イチタライと木遣りのドゥナン文化 (第1章19)
「イチタライは一般の家庭に大抵2個以上ありました。大きなイチタライはカンダ(母屋の上手〈東側〉に据えて置き、樹木や屋根に樋をかけ天水を溜めて飲料水とし、万が一の場合は消火用にも使いました。〈中略〉ドゥムティ(世持)に関わる数軒の家には大きなイチタライが設置されました」
機動力が乏しい昔、重量が6トンもある大きなイチタライ(石盥)を製造現場から家までどのように移動・運搬したか。本節では、村対抗の木遣りによるスブグトゥ(勝負事)で行われたことが事細かに書かれています。
庶民はいかにして数を生み出したか(第2章)
「与那国島の農民は稲束を、右の図表のように、3 束を一まとめにして、トゥカァ(3束×1=3束)、タァカ(3束×2=6束)、ミィカ(3束×3=9束)…と3の倍数で数えます」
ちょうど、3 束×10 = 30 束で 1(トゥ)マルティとなり、新しいマルティの単位が出てきます。どうして3の倍数で数えるのか、その課題を追及する中で、藁算(バラザン)にめぐり会います。
第2 章では、農民がいかにして数量を認識して数を表していたのかに焦点を当てるとともに、バラザンに表された数値から当時の人頭税制の状況を探っています。
与那国島、昔社会の様相を探る (第3章2)
朝鮮人漂流民が島で体験したこととが載っている李朝実録は、昔の与那国島のことを知る上で一級の資料と言えます。その李朝実録、埋蔵遺跡、そして口碑伝承から、与那国島の昔社会の様相を探っています。また、16 世紀初頭、与那国島を統治したと言われる女酋長、サイアイ・イスバの人物像についても触れています。
「 戦争こそこの世の地獄」大舛家の鎮魂・平和の墓標 ( 第4章)
「この大舛家の墓地の入口の左側に記念碑があります。松市さんが島の子供たちに贈った詞が刻まれています。ここには死、戦争、玉砕などの語は一言もありません。これが大舛松市さんの本心なのでしょう」
島の子供たちに贈った詞と大舛家の墓。左側に松市さんの忠魂碑、右側に清子さんの慰霊碑が建つ。
書評 国人のこころの誌し -島の特徴と独自性とは-
にっぽんの西の端(はな)に小さな国がある。石垣島へ127キロ。那覇へ520キロだが台湾には110キロ。南十字星の見えるらしい、にっぽんに一括りしたことを申し訳なく思わせる位置の島、与那国。島の特徴と独自性を、地勢、自然、歴史、暮らしにわたり誌したものではあるが、その道の専門家によるのではない。島に生まれ島に育ち旅に出て故郷に戻った、与那国を愛して止まぬ国人のこころの誌し。そのこころは「東アジアの南向き玄関口」として開いている。
船の旅人の発つ港の名、「波多浜(なんたはま)」はあて字らしい。名曲として知られる島唄『与那国スンカニ』に、「ミナンダアワムラシヌミヌナラヌ」(別れがつらくてならぬ、目からこぼれる涙は泡盛の杯からあふれ砂浜に落ちる)と詞にある。ミナンダは眼涙(みなんだ)、なみだの濁点が取れて「なんた・浜」になったという。15~17世紀の琉球王国は大航海時代。朱印船も行き交った。ヨーロッパ、インド、インドネシア、フィリピンなどからの船と男を、眼涙(みなんだ)の浜は受けいれる。世界の方から与那国に入り首里・大和のほうへ去ってゆく、おそらく島の女の眼に涙を浮かばせて。『続日本紀』(714年)に登場する「京に運ばれたクバ」は与那国産だと著者は確信する。
琉球王朝は人頭税(貢納米等)を課す。人数が多いと耕作面積が不足、つまり一切合切を取り上げられることにもなる。あげく上納地琉球那覇までの運賃も負担させられた。本書にはないが、そこで弱者の間引きが行われた。この過酷税が算法を生み出した。那覇と薩摩間は380里、これを基準に各島間の距離を決める。もちろん実距離ではない。琉球を収奪する薩摩までの運賃を、米106升につき3斗8升とした〝距離〟だ。与那国と那覇間は379里にもなったという。さらに品目や数量を示すバラザンとの、いわば藁製の計算機を創案し、カイダディとの絵文字も創った。過酷な収奪は才覚となり、文化の創造力となったので。極限的暮らしの中でも島人の性格は温厚で、どろぼうはおらず、道に落ちているものは拾わず、喧嘩というものがなく、武器もなかったという。稲の刈り入れ前には、人々は慎み深く、大声を出さず草笛であいさつをする。大声を立てると稲霊が逃げてしまうのだ。島々に権力者が登場する時代になると、与那国にはサンアイ・イスバという女の子が生まれてすくすく大女に育ち、酋長になってジャンヌ・ダルクみたく島を護った。その島に近現代戦争がやってきた。この闘いは生(いのち)を殺して、精神を殺す、二度殺されるのだ。戦死の大舛松市さんは、本土を防衛する沖縄地上戦の戦意高揚の、軍神に祭り上げられた。その妹の清子さんはひめゆり学徒隊で戦死した。
こんどは自衛隊がやってきた。そこで起こる、起きうる問題を各専門家が寄稿している。要点のみを引く。生物多様性について屋富祖昌子(理学博士)―与那国は、小さい面積に溢れるような多様な生物が生息する島としてその重要性が認識されており、その多様性を維持する道を、軍事基地化を否定し、平和裏に生きる中で模索しつつ、先頭に立って示すことができる島である。自衛隊レーダーと電磁波問題を賀数清孝(琉大名誉教授)―レーダーなどの近くで強い電磁波を浴びると、ただちに体温上昇をもたらし(電子レンジがそれ・筆者)命にかかわることもある。日・米の(電磁波)規制値は世界ワーストだ。与那国島の絶滅危惧種アオイトトンボについて、渡部賢一(日本トンボ学会会長)が、そして「寝耳に水」だった、自衛隊配備の政治的背景を著者が解く。石原慎太郎が都知事時代に起こした、無責任極まった尖閣買収問題は与那国島(石垣島も)に深刻な事態に膨張し続けている。地政学上からも、やはりにっぽんに一括りしたことを申しわけなく思わせる。
本書第5章「日本国憲法をチマムヌイ(与那国島語)で」から一部を引いておきたい―日本国 ぬ いくつぁ きる くるみ や みとぅみらりぬん、また どぅるし や ならん。(日本国の戦争する計画や権利は認められません。また、許しません)
『週刊読書人2017年9月22日号』掲載
下嶋哲朗(ノンフィクション作家)
著者
宮良 作(みやら さく)
1927年(昭和2)与那国島、ナンタムラで出生。本籍・与那国町字与那国217。父の後を追って1937年与那国小学校4年の夏、台湾に渡り、基隆市双葉小学校、旧制高等学校(台北帝国大学予科)1年を修了。日本敗戦により東京に引き揚げ、中央大学卒業。
米軍占領下の郷里沖縄へのパスポートが出ず、東京都狛江町・市会議員を4期16年務めた。その後「沖縄返還協定」調印前の情勢の中で、パスポートの制限がほとんどなくなった1971年4月に帰郷。以後、国会議員団沖縄連絡事務所勤務。そして沖縄県会議員を8年間務めた。
著書に沖縄 反戦「絵物語り」本、『湖南丸と沖縄の少年たち』、『忘れな石-沖縄・戦争マラリア』、『弟を返して-愛からの手紙』を妻瑛子と共同出版。ドキュメント誌『沖縄戦の記録・日本軍と戦争マラリア』、『与那国島誌-その近代を掘る-』がある。
第14回( 2017年)ドゥナン・スンカニ大会歌詞の部最優秀賞受賞。
宮良 純一郎(みやら じゅんいちろう)
1949年(昭和24)与那国島で出生。1973年3月、岡山理科大学(応用数学科)を卒業。1973年4月、数学教師として初赴任の黒島中学校を振り出しに37年間の教職生活を務め、2010年3月、石垣小学校を最後に定年退職。以後、八重山数学教育研究会(通称ヤイマスの会)会長、八重山戦争マラリアを語り継ぐ会事務局長、子供と教科書を考える八重山地区住民の会事務局長を務め現在に至る。著書に数学教育書『学びと教材』、『学びの方途を求めて』がある。父、宮良保全の遺稿をまとめ、『与那国島の民謡とくらし』を編集発刊。
〈挿絵〉
宮良 瑛子(みやら えいこ 旧姓: 藤崎)
1935年(昭和10)福岡県直方で出生。武蔵野美術大学卒業。日本美術会会員、美術家平和会議会員、日本美術会会員、沖縄女流美術家協会顧問。沖縄平和美術展副委員長、2005年沖縄県文化功労者賞受賞。那覇を中心に宮古、石垣など個展20数回、2014年には「原爆の図、丸木美術館企画」、2016年に沖縄県立博物館美術館企画個展「いのち」が開催された。
著書に『沖縄-宮良瑛子作品集』、他に銅像「海鳴りの像」(那覇市波の上公園在)、「水底のうた」(鹿児島県山川町在)を制作。