心に太陽を、くちびるに歌を
与那国島航路の荷客船であった祐清丸(23.21t)は、昭和32年1月18日、西表北西方(東経123度18分 北緯24度27分)、与那国島沖から12マイル付近で浸水・沈没した。同船が石垣港出航から沈没し、遭難者が漂流して台湾の軍艦「太康21号」に救助されるまでの記録(無線通信、救助活動等)が鮮明に残されている。
人が生きていく上で最も大切なことは、第一に自らの命を守ること、併せて、可能な限り全ての命を守るための闘いをしていくことである。
遺族や筆者の友人、関係者の意見等を加えて改めて書き直したこの拙著が、何らかの形で海難事故を防ぎ、あるいは犠牲者を未然に防ぐことに役立つのであれば、これに過ぎる幸せはないと思っている。
「あとがき」より
与那国沖 死の漂流 - 僕は絶対に生きて還る - 目次
高吉さんのこと ―序にかえて 宮城 文 3
第1章 祐清丸の船出
第1節 石垣港出港 10
第2節 沈没の危機 25
第2章 漂流と我が人生
第1節 幼い日の記憶 40
第2節 遭難、姉と父の死 45
第3章 祐清丸、海底に没す
第1節 沈没 65
第2節 果てしなき漂流 77
第4章 救助
第1節 国府軍の軍艦「太康」による救助 94
第2節 この悲劇を二度と繰り返さないために 107
=資料= 機船祐清丸遭難事件裁決書
第3節 海難事故を未然に防ぐには 130
第5章 人々の記憶に残る祐清丸
黒島 健 氏 148
安里國昭 氏 154
岡山 稔 氏 161
松田長栄 氏 170
松田良孝 氏 175
あとがき 188
祐清丸遭難者氏名 192
季刊『しま』274号 公益財団法人日本離島センター P138 より
2023年3月26日琉球新報掲載
「海難事故防止に貴重な記録」
本書は、1957年1月18日 の与那国島沖合で起きた祐清丸 の遭難事故について、同船に乗船して遭難、漂流し、九死に一生を得た著者の伊良皆高吉さんによって、当時の記憶が詳細に記録されたものである。初版からの幾度かの改定を経て、本書ではさらに詳細な記述と関係諸氏の寄稿が加えられた内容とな っている。
2022年4月の知床遊覧船遭難事故が記憶に新しいが、このような特に業務上の過失を伴う不幸な海難事故を防ぐためにも、その記録を風化させずに伝承していくことが極めて重要である。本書では、乗船前から遭難、漂流、救助にいたるまでの船内の乗客や船員の様子や船からみた気象海象の状況に加え、 関連する新聞記事や報告書による客観的な記述も添えられており、当時の状況をさまざまな視点から理解し、その防止に向けた取り組みを考察する上でも貴重な一冊となっている。
本書における詳細な記憶の記述や、添えられた「機船祐清丸 遭難事件裁決書」の内容から、 複数の過失や悪条件の重なりがこの事故を生じさせたことがわかる。 特に喫水が比較的深い祐清丸は底触による損傷や修復の履歴があり、事故前日にも石垣港出航時に高波に伴う底触があったにも関わらず、翌日には船底の状況確認も不十分に出港し たこと。また島々やサンゴ礁に よる遮蔽効果のある石垣島~西 表島の海に比べ、事故当日の西表島~与那国島の海域ではより厳しい海象条件となることが想定されるにも関わらず、気象の回復傾向下で石垣島周辺での海上注意報が解除されたことから、与那国島への出港を判断したことなどは重大な過失であったと思われる。
乗客の様子からは旧正月直前という条件も重なって乗船を決断した様子も伝わり、いわゆる正常性バイアスによる判 断の誤りの怖さも改めて感じた。また、南国とはいえ冬季の しい条件下での漂流に前向きに 耐え抜いた著者の力強い思考や 行動にも大いに学ぶところがある。(田島芳満・東京大教授)
著者
伊良皆 高吉(いらみな こうきち「高」は正しくは旧漢字)
昭和12年沖縄県石垣市新川生まれ。
八重山高校卒業後、臨時教員として与那国、石垣で教鞭をとり、明星食品株式会社に入社。のちに法政大学卒業。
八重山古典音楽安室流師範免許、琉球古典音楽安冨祖流教師免許保持者であり、1999年には沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡技能保持者に認定される。現在は東京都千代田区神田にて沖縄音楽三線教室を主宰し、八重山音楽の魅力を日本内外に広く発信している。