あなたの書棚の一隅にいつも八重山の光と風を・・・
21世紀の今も、敬虔な祈りと命の輝きに満ちた八重山の島々。その一年を、季節ごとの祭祀行事を中心に静謐なモノクロの世界で一冊の写真集にしました。
ギャラリー展示風のレイアウト
初版(B5版)では、臨場感を重視した、断ち切り、見開きを多用したレイアウトでしたが、新装版は、版型も大型(26.3cm×26.3cm)にして1ページに1作品(計160作品)。写真の外側の余白を広くして、ギャラリー展示風の落ち着いたレイアウトになっています。下の画像から内容の一部がご覧頂けます。
・世を運ぶ舟
・世は稔れ 種は割れよ
・若夏になれば
・来夏世へ願いを込めて
・月の真昼に
・白夏の過ぎるころ
・祈りの歳月
・「世ば稔れ」考 沖縄県立芸術大学 波照間永吉教授による論考
・撮影メモ
・あとがき
・八重山諸島位置図
本写真集は、八重山の主な祭祀行事を中心にして季節順に収録したモノクロ写真158点で構成されている。そのコンテンツは、「世を運ぶ舟」「世は稔れ 種は割れよ」「若夏になれば」「来夏世へ願いを込めて」「月の真昼に」「白夏の過ぎるころ」「祈りの歳月」であるが、それぞれの冒頭には著者による短詩が置かれている。写真集のタイトル「来夏世(クナチィユ)」とは先島の人たちに顕著な豊穣を願う祈りの言葉だ。
著者は、あとがきのなかで次のように述べている。「人と神とのつながりは特殊な聖地、特定の司祭者だけのものではなく、八重山に暮らす誰しもが大切に受け継いできた『祈り』の光にこそあるのではないか」。確かに本写真集の作品にはいずれも来夏世を願う祈りがあり、光が満ちあふれている。
たとえば、ひたすら豊穣の世を乞い願い、神の言葉を伝えるツカサ(神司)の姿には、モノクロ写真の表現による白と黒のコントラストが白衣や白髪の光を際だたせている。
本写真集は、石垣島桴海御嶽の拝殿にあるひとつの香炉と丸い通し窓から聖なるイビを望む構図で始まり、季節ごとの祭祀と島びとの祈りや喜びの様子を浮かび上がらせる。この聖なる時間と空間に漂うのは静寂であり、沈黙である。 しかし、耳を澄ませば時に小鳥のさえずりが聞こえ、時に祭の歓声が聞こえるかも知れない。本写真集は最後に、わずかに視角を変えてほぼ同じ構図の桴海御嶽の写真を円環するように配置する。まるで祈りの物語が終わり、やがてまた始まろうとするかのように。
二つの写真でイビの部分がぼかされているのは、おそらく、聖なる場に対する写真家としての敬虔さや姿勢のあらわれであろう。
なお巻末には、波照間永吉氏(沖縄県立芸術大学教授)の「『世ば稔れ』考」という貴重な論考も収められている。独立した論考としてはもちろん、本写真集の世界についての想像力を、さらに刺激してくれるはずである。
八重山文化研究会会員・砂川哲雄
八重山の島々には、豊年祭や種取祭、節祭、結願祭などさまざまな伝統祭祀行事がある。過疎化が進む離島の小さな島でも、人がそこに生活している限り絶えることがない。祭祀空間の中心をなす御嶽では司による神との交信が行なわれ、あるいは神を招く海上の神事が繰り返されてきた。祭りを支えてきた農耕や社会構造が変容しているにもかかわらず、祭りが続いてきたのはなぜだろうか。
今回、大森氏によって写し出された八重山の祭祀行事の写真は、新鮮な感動を与えずにはおかない。まさに島人の精神文化の原点を、写し出しているからである。
写真の背後から、ユー(世・豊穣)を願う祈りの言葉がもれ聞こえ、ドラの音が響いてくる。時代が変わっても、幸せを願う民衆の思いは変わることはない。
著者は人と神とのつながりに引き込まれて、祭祀空間へと通い始める。しかし、人と神とのつながりは、特定の祭祀者や特殊な聖地に限らない、八重山の人たちが暮す大切な「祈り」にこそあると気づき、カメラ・アイを広げていく。「祈りは、成就した願いも聞き届けられなかった願いをもいくつも経験した地域の人々が共有する、限りある命を超えた過去から遠い未来までつらぬく思いであり、静かな光のようなものだろうか」という。この写真集は、まさに「静かな光のようなもの」を求めたものだ。モノクロの写真が「静かな光」を、より一層引き立たせている。
写真集のタイトルの「来夏世」は、「来る夏の世(豊穣)」を祈願する島の美しい言葉だ。五穀豊穣を意味するユー(世)こそは、島の精神世界を解き明かすキーワードである。巻末の県立芸大教授の波照間永吉氏による「『世ば稔れ』考」が、それを八重山や宮古の歌謡から考察し、本書を奥深いものにしている。その中で同氏は、ニライ・カナイとおいう海上他界からの豊穣を乞う心情が、琉球弧普遍の文化から生まれたものとしつつも、その表現は南琉球固有のものであることを指摘。「南琉球の民人の苦難の歴史が、この句を生んだ」と結んでいる。示唆に富む言葉である。
三木健・ジャーナリスト
大森一也氏の写真集『来夏世(クナチィユ)』(2013年、南山舎、264頁、2900円+税)が刊行された。副題として「祈りの島々 八重山」と付されている。表紙は深い杜へとつづく神の道を歩む西表島祖納の神司たち。八重山の祭祀世界へと彼女らが導いているようだ。
『来夏世』は、モノクローム写真158作品を収録し、七つのコンテンツ(内容)から成る。それらは「世を運ぶ舟」「世は稔れ 種は割れよ」「若夏になれば」「来夏世へ願いを込めて」「月の真昼に」「白夏の過ぎるころ」「祈りの歳月」といったタイトルが与えられ、概ね折々の祭祀と対応している。つまり、本書の構成そのものが八重山の年間サイクルを表しているのである。
オーソドックスな設定と構成だが、それが無理なく成し遂げられているのは、やはり大森氏の深い見識に支えられているからだろう。御嶽の木漏れ日、櫂に咲く波の花、湧き立つ入道雲、吸引力ある星空、水面に落ちたサガリバナの花、島人の笑顔なども、本書のコンテンツに挿入されると、どれも意味深なものとして表れ効果的である。各所で氏の観察眼が生きている。
さらに本書は祭祀という文脈だけにしばられず、新たな文脈をも生み出している。それは次の「あとがき」にもうかがうことができる。
「撮影を始めた当初は、人と神とのつながりを求めてさまざまな御嶽へ足を運び、そこでの神事や祈願ばかりに目を向けていた。だが写真集としてまとめるにあたっては、芸能も含め年中行事の写真も多く収録した。それは、人と神とのつながりは特殊な聖地、特定の司祭者だけのものではなく、八重山に暮らす誰しもが大切に受け継いできた『祈り』の光にこそあるのではないか、と思い至ったからほかならない。ことに祭祀空間、伝統行事の場、自然に密着した暮らしぶりの中にそうした精神性を感じることが多く、はじけるような笑顔やひたむきなまなざし、躍動的な動きの一瞬一瞬に、まぶしい光がこぼれ出ているようだった」。
このように、著者の関心が信仰や祭祀を中心にその周辺に拡大されたことにより、本書は多面性を得たともいえる。
いみじくも本書に収録された波照間永吉氏(沖縄県立芸術大学教授)の論考「『世ば稔れ』考」には、「『よ』の語義は、穀物の稔りを意味する『よ』から、穀物の実りのサイクル(時間)を意味するようになり、人生の一代・一期、さらには、時間を生きる人間の集合体としての世(世間・社会)を意味するようになった、とみることができるのではなかろうか」とある。
この考察にしたがうと、本書は「世」(豊穣)を追求する心持ちばかりではなく、同時に人々の思いが交錯する現代の八重山社会をも捉えていると考えられる。だから、『来夏世』をめくる読者は、八重山という対象へのアプローチの仕方により、それぞれ異なるイメージを抱くはずだ。ことに現在八重山で暮らす私たちなら、写真の細部に自らの体験や記憶を重ね合わせてリアリティを感じることができるだろう。
また本書には、神代と現在をつなぐとともに、「来る夏の世」を永遠に追いかけているようなイメージがある。本書が桴海村の節祭で始まり終わっても、また季節はめぐりめぐるのである。大森氏の言葉を借りるなら、「めぐる季節の螺旋は果てなく続」くが、「いつの世も 怠りなく夏を追いかけ」ているのである。それゆえモノクロームの世界が神話的な時間に誘うが、その一方で光や色をともなって鮮烈な今が浮き上がってくるのである。
今という瞬間は、種子のように過去も未来も内包し、永続するものである。今を生きる私たちは、ともすればその永続性に疲弊することもある。そこで「来夏世」を乞うことは、過去を集積した現在から、強く未来を志向するポジティブな営みともいえるだろう。
例えば、それは今日という日を特別に(聖なる日と)設定し、「今日が日ば本ばし・黄金日ば本ばし」とうたって、生命力を更新させる一つの方法にも通じるものではないだろうか。そのとき同時に、自らを鼓舞するように、「世ば稔れ」と囃してみてはいかがであろうか。それは、波照間氏がいうように、この言葉が「人びとの願望のすべてを集約して表現したもの」(前出論文)だからである。
本書にも新たな生命力の再生を促すエネルギーが宿っているにちがいない。『来夏世』は書架を飾るのみならず、季節の折々に、気分を一新したいとき、また何かを始めようとするとき、手にとりたくなる写真集である。
飯田泰彦
真っ白な地色に厳かな場所へ向かっているであろう神女たち。モノクロ写真であるからこそ、見えてくる神々しいばかりの光。そして少し遠慮がちに配されながらも、金文字で、存在感を主張する題字。
本書『来夏世』は、装丁から凝った本である。しかし、それが押しつけがましくない。シマに生きる人々の祈りの姿や、何気ない表情で展開される内容が集約されているようである。
そしてシマに満ち溢れる光が強く印象に残る。命の大切さ、そして地に足をつけて生活することの大事さを教えてくれる写真集である。著者の大森氏は、筆者に「命の大切さや地に足をつけて生活する大事さ。直接的には日常生活を撮ってはいないのですが、地に足をつけた生活がなければ、生まれてこない表情であり、躍動であり、祈りだからです」という言葉を与えてくれた。まさしく、地域の人々と、真摯な姿勢で、向き合っているからこそ撮影できた写真の数々だと思う。
私は、特に写真集に掲載されるような写真は見るだけでなく、読むものだと常々思っている。その意味では、本写真集も存分に読むことができたといえる。表情はもちろん、背景や服装など、敬虔な気持ちになり、楽しくなり、面白さを感じ、存分に堪能することができるのである。以前、ニライ社から出版された比嘉康雄氏の『神々の古層』を彷彿とさせる写真集でもある。
巻末の撮影メモも、写真の深みが増す効果があり、最初は写真のみを読んで、写真本来の面白さを堪能し、巻末メモで、写真の奥に潜む著者の思いに触れることのできる二重構造ともなっている。
そして、各章の文言はキャッチコピーとしてもうなづけるものであり、各章巻頭の詩も写真の内容を補完するだけでなく、その一篇でも著者の世界を味わうことのできるレベルの高いものとなっている。そのような編集の良さも印象に残った書である。
ただ、波照間永吉氏の『「世ば稔れ」考』は、唐突な印象を受けた。それまで「世ば稔れ」という言葉が出てこないからだ。あとがきをよむと、「あぁ、そうだったのか」と納得できるのだが、波照間氏の書いている内容が面白いだけに、きちんとした説明が欲しかったのは私だけであろうか。
また、角背だからなのであろうか、本の開きが悪いように感じるし、『「世ば稔れ」考』以降の紙質を変えた箇所の製本強度も気になるところであった。
宮城一春(編集者・ライター)
発行/南山舎 2014年8月
本仕様/263mm×263mm 208頁 上製本